新司法試験の合格率と弁護士需要の拡大

NBL(商事法務社刊)1月15日号の巻頭において、大東文化大学の平良木先生が、法科大学院や新司法試験の在り方について苦言を呈されておられます。

その中で、ドイツでは、法学部卒業試験イコール司法試験であり、毎年1万人を超える卒業生が誕生しているにもかかわらず、また人口自体日本よりはるかに少ないにもかかわらず、弁護士の就職難などという事態は聞いたことがない、と述べられています。
そのうえで、日本において、文科省が新司法試験合格率の低い法科大学院に定数削減を迫っていることに疑問符をつけられておられます。

法科大学院設置-新司法試験の実施という制度における当初の目標であった合格者3千人には程遠く、2千人しか合格できていない状況は、司法試験合格者に対する司法研修所での教育に必要な国家予算の制約という観点からだけではなく、司法研修所を卒業し弁護士となった者の就職率の低さに起因しているとも思われます。

この就職率の低さの原因につき、既存弁護士事務所や弁護士会自身が、弁護士の大幅増に対して積極的でないということではないかと思いますが、その理由をもっとしっかり考えなければならないでしょう。

既存事務所や既存弁護士は、当然のことながら、自らの業務量を減らしたくないでしょう。
いくら表面上、人権を擁護していくには弁護士の増加が必要だ、などといったところで、弁護士が自営業者であり社会全体の弁護士ニーズのパイが変わらない以上、新しく大量の弁護士が作り出される状況を望ましいと考えることには無理があると私には思われます。

では、上記のような状況にあるドイツや、あるいは弁護士が80万~90万人いるといわれる米国において、なぜ弁護士が就職難になったり生活苦になったりしないのでしょうか?

その最大の原因は、弁護士の「報酬体系」および「賠償金額」にあると思っています。

米国の弁護士報酬は、原則として、「成功報酬」が基本です。

例えば、消費者が製造物責任訴訟を行う際、日本であれば、弁護士に着手金としてかなりの額を支払う必要があります。これは敗訴しても返還されないものです。
制度上、訴訟費用はかなり低く抑えられましたが、消費者(被害者)は、相変わらず弁護士に対する報酬を覚悟しないと、製造物責任訴訟などを起こすことはできません。

ところが、米国では「成功報酬」が基本ですから、被害者側は、予め用意しなければならないお金はほどんとありませんし、敗訴したとしても、低廉な訴訟費用を除き、自己が負担しなければならないものはありません。

もちろん、勝訴した際には、非常に高額の弁護士報酬を支払う必要がありますが、ご承知の通り、米国では懲罰的賠償等、裁判で命じられる賠償金は日本よりかなり高額ですし、仮に手元に大した額が残らなくても、被害者は、「勝訴」という決着が着いたことに対する精神的な満足感を得ることができます。

しかし、日本においては、弁護士報酬は成功報酬ではないため、敗訴時に弁護士に支払う費用を考えると、勝訴の確率が相当高くないと(ほぼ間違いなく勝てるというレベルでないと)製造物責任訴訟などを起こすことはできないと思われます。

日本において「弁護士の数を増やし人権を守っていく」という主張自体は間違いではないと思います。

でも、単に弁護士の数を増やしても、その需要を増やさない限り、意味がありません。

製造物責任法を制定したり、消費者契約法において消費者自ら効力を争ったり取り消し権を行使したりできるようにするだけではなく、弁護士を気軽に利用できる状況をつくらなければ、その需要は増加しないでしょう。

現実に、日本において製造物責任訴訟は、1995年の同法制定時に考えられていた訴訟提起数よりもかなり低い数値にあります。
同制度制定10年を機に調査された平成18年の内閣府調査によると、10年間での製造物責任訴訟として調査できたのは、たったの80件、つまり年平均8件にすぎないわけです。そしてこの現状は今も変わっていないと思われます。

(なお、企業側にとっても、製造物責任訴訟が提起されることによって企業体質の強化につながると思いますので、製造物責任訴訟が少ないことをもって一概に企業にメリットがあるともいえないと思っています。)

米国での製造物責任訴訟は、毎年1万件を超えています。

まったく次元が異なります。

弁護士報酬に関し、着手金制度から成功報酬体系へ変えることなく、日本における弁護士需要が高まることはないでしょう。

弁護士需要が高まらないのに闇雲に弁護士の数を増やすことは、弁護士の過当競争による質の低下をもたらすとともに、生活に苦しむ弁護士が増え、その社会的地位を脅かすとともに、弁護士希望者の低下によりますますその質が低下していく、という悪循環になりかねないでしょう。

社会経験なく司法試験に合格して弁護士になる人がほとんどです。

弁護士が弁護士として社会で活躍するためには、弁護士となった後、社会や企業実務に関して多くを学ぶ必要があります。
(冒頭の平良木先生も「実務家は、実務を通じて技量等を修得していくことが基本だ」と述べられています)
弁護士を多数生みだしても、実務を経験できない弁護士は、技量を修得する場がありません。


多くの優秀な法科大学院生が苦しみ続けています。

その根本的な解決は、弁護士需要の飛躍的拡大によるしかありません。

そして、弁護士の報酬体系を変えることなくして、弁護士需要の飛躍的な拡大がなされることはないと思います。


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民法改正~個別論点3「特定物の危険負担における債権者主義」

私がセミナーで講義をする際に、いつも強調し【過ぎて】しまうのが、所有権移転時期の問題と、危険負担の移転時期の問題です。

現実には、このあたりのことは、契約でかなり詳しく規定される部分ですから、民法でどうなっているか、という議論にそれほど多く得ることはありません。

唯一、「不動産売買」で所有権移転時期を明記していないと、金も払ってもらっていないのに契約しただけで相手方に所有権が移転するとともに、危険負担も移転してしまう。

その結果、契約後、売主がいぜんとして管理している家に雷が落ちて全焼してしまったとしても、その家の買主は、既に所有者であるとともに、所有者であるがゆえにその危険も負担せざるを得ず、その結果、危険負担における「債権者主義」という珍しい規定が策定されたと考えられます。

結果として、「代金債務は依然として所有者側=物件に対して債権者としての立場に立つ買主が、代金をしはらわなければならない」というとても常識とはかけ離れた結論となっているわけです。

理論的には確かに、所有権移転と、危険負担の移転時期を合わせることにより、その整合性を取っているようにも見えます。

しかし、これが明治以来続いている「概念法学」の恐ろしいところで、前提となる契約と同時に所有権は移転する、という社会的な実証も、一般人の感覚もすべて無視して打ちたてたドクトリン(ドグマ)をベースに、それに論理的にのみ適合させた条項を加えていったと言えます。

しかし、現実の常識としては、契約書を交わしたからといって一円の支払いもしていない場合に、買主が当該物件を「自分のものだ」と認識することは稀でしょうし、売主としても契約だけで先方に全部が移転してしまったと考える人もまずいないでしょう。

明治民法は、学者の念頭に「大根売買」を想定して作成したものだと揶揄されます。

従って、登記がなければ対抗できない不動産物件変動に関する対抗要件主義、という原則については検討がおろそかであるばかりでなく、現実の取引を見誤っていると思われます。

ちなみに、ウィーン動産売買国連条約では、特定物、非特定物を問わず、いくつかの輸送形態に応じて細かく規定しており、

67条では「輸送を伴う場合において...危険は売買契約に従って買主に送付するために物品を最初の運送人に交付した時」に買主に移転するとされている。運送途中に売買契約が締結された場合の危険の移転を規定した68条はとりあえず除外するとし、

69条では67条68条が適用される以外の場合の、一般論として、
「危険は、買主が物品を受け取った時に、又は買主が期限までに物品を受け取らない時は、物品が買主の処分に委ねられ、かつ引き渡しを受領しないことによって、買主が契約違反を行ったときから買主に移転する。」
と規定しています。
つまり、原則は、買主が物品を受け取った時に、買主に危険が移転する、とされているのです。

通常、買主が購入した商品を受け取り、自分の「支配領域内」に置いていた際に、例えば雷が落ちて全焼してしまった、という場合には、買主としても自己の支配領域内にあったのだから、損失を自分で負担してもやむを得ない、という認識があると思いますし、それが良識といえるのではないでしょうか。

従って、日本民法も、受け取った時、あるいは、受入検査が終わった時、のどちらかを危険負担の移転時期とすべきように思われます。これは、特定物であろうとも不特定物であろうとも同じにすべきだと思います。


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民法改正~個別論点2「不安の抗弁権」

民法(債権関係)の改正の論点について、2番目に、「不安の抗弁権」を取り上げます。

不安の抗弁権の採用(明文化)の是非は、法制審議会民法改正部会の「民法(債権関係)の改正に関する中間的な論点整理」第58番目に論点として掲げられています。

これまで述べてきました「事情変更の原則」は、事情が変わったら契約条件の一方的変更や解除を認めるかどうか、という点にかかわる原則でした。

これから述べる「不安の抗弁権」は、契約の内容や効力(解除)には直接結び付くものではなく、債務者である甲がその債務を履行しようとした時に、相手方乙に何らかの不安を覚えた、つまり乙が反対債務を履行してもらえないのではないかと甲が不安に思った場合、甲が一定期間その債務の履行をしなくても、甲が債務不履行責任に問われることはない、という効果を持つ制度といわれています。

不安の抗弁権の制度化も、前述の事情変更の原則と同様に、どんな場合に、どんな不安な状況が生じた場合に、自分の債務の履行を拒めるか、という要件を定立することが難しいことにあり、あいまいな要件では濫用の恐れがある、という難点があります。
そして、同時に契約の使命たる「予測可能性」に幾ばくかのマイナス効果がある、ということです。

ただ、事情変更の原則と異なるのは、
不安の抗弁権が認められた場合であっても、契約の対価が変更になったり、契約が解除になる、という重大な結果を生じるのではなく、不可抗力の場合と同様に、抗弁として、依然として自己の債務を負いつつ、一定期間、その債務の履行をせずとも債務不履行責任に問われない、という免責的な効果があるにすぎません

契約は、双方の公平感の上に締結されるものであり、対価変更や契約解除といった当事者間の大きなバランスに影響する「事情変更の原則」を受け入れるには、多大な困難と精緻で「具体的」なシチュエーション、法的状況に応じた作業が必要になると思われます。

しかし、「不安の抗弁権」は、あくまでも「抗弁権」として作用するだけですから、契約の重要な債権債務関係が変動し両方のバランスが大幅にくずれるという恐れは、「事情変更の原則」よりも小さいように思われます。

特に、相手方が経済的苦境に陥っていて、自分の商品を納めても代金を支払ってくれる見通しはほとんどない、そういう状況になった場合、契約上、先履行義務を負っている当事者を救う手段として「不安の抗弁」を認めてもおかしいとは思われません。

ここで、事情変更の原則が「契約の使命たる予測可能性」を損なうから反対だ、と私は申し上げましたが、「不安の抗弁権」については、(もちろん要件を精緻に、具体的な事情ごとに分けて定立していくことは肝要だと思いますが)、契約当初と変わったのは一方当事者の信用状況の悪化、信頼関係の悪化という当事者がらみの状況であり、そもそも不安の抗弁を提出する相手側に多少の帰責性がある場合です。

つまり、期限の利益喪失条項と同様、相手方の信用状況が悪化すれば契約通りの履行をしなくてもよい、と考えることは、そもそも契約上の予測可能性を低めるわけではなく、逆に「当然そうだろうな」という納得感さえ抱くのです

ここに、契約改変・解除という契約を根底から変動させてしまうものと、そうではなく契約の枠組みの中で抗弁として作用するものとの相違があるように思います。

事情変更の原則
の場合、契約当事者が予見可能でなかったことが最大の論点となるでしょうが、企業間取引においては、大抵のことは予見可能であるとされるものと思います。

だから、事情変更の原則の場合、要件が裁判所によって古くから定立されているにもかかわらず、実際に当該原則が適用され契約条件の変更や解除が認められた例が極めて少ないわけです。

しかし、契約締結後、相手方の信用状況がガラッと変わってしまう、倒産しかねない、という状況になるかどうかは、極めて予測不可能でしょう。

(特に、新たに企業間取引をする場合、相手方の信用状態を良く検討して契約関係に入るのが通常ですから、その後相手方の経営が傾くとか、キャッシュが不足する、といった事態が起こるだろうと予期して契約関係に入る企業は、普通は考えられません。)

従って、不安の抗弁権を認めることは、逆に、相手方の信用状態に悪い変化があった場合には、とりあえず自己の債務の履行を拒んで様子を見ることができるという安心感を与えるのであり、予測可能性を大きく損なうことはないように思われます

ただ、消費者取引労働契約等において、企業側からの抗弁の主張を認めるのはどうかと思いますので、それら情報格差がある契約類型においては、情報弱者からのみ抗弁を認めるとするなどの手当ては必要であり、その限りにおいて、前期「事情変更の原則」で私が申し上げた、法律事象、具体的な法律関係ごとに細かく要件をあぶりだしていくことが求められることは、この「不安の抗弁権」に関しても同様だと思われます。

それを踏まえたとしても、事情変更の原則とは結論的には異なり、不安の抗弁権の客観的な要件設定化については、肯定的に考えてよいのではないかと思っております。

なお、比較法的にみると、国連ウィーン条約では不安の抗弁権は採用されており(条約71条)、米国UCC第2-609条でも明文化されています。

また中国民法総則第68条でも不安の抗弁権は認められています。
(中国における事情変更原則は、条文としては制定直前に削除されましたが、司法裁判所に付与された中国特有の立法作用により、事情変更の原則は事実上採用されていると考えてよいと、言われています。)

但し、不安の抗弁権も、「約束は守らなければならない」という契約原則に対する例外規定であることは、事情変更原則と変わらないわけですから、やはり慎重な要件定立を考える必要があるでしょう。



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民法改正~個別論点1「事情変更の原則」その2

先日5日にこのブログで民法改正個別論点として「事情変更の原則」の採用について、私見を少し述べました。

その後、NBL(New-Business-Law商事法務刊)の最新号(1月1日第968号)において、内田貴先生が「佳境に入った債権法改正」と題する寄稿をされており、その中で例として唯一、上記の「事情変更の原則」について取り上げておられました。

先生はあくまでも事情変更の原則採用の推進派のようで、「読んでわかる民法」「国民一般に分かりやすい民法」」を作るという信念のもと、判例や専門家に聞いて初めてわかるような「書かれていない原則」を極力明文化していこうというお考えのようです。

「事情変更の原則」の採用については、実務課からの批判が非常に強いことを意識された上で、次のような論拠をもとに、採用すべきことを説いておられます。

1)判例としては大審院時代(最高裁の前身)に既に適用例が存在し、最高裁で肯定した判例はないが下級審判決では珍しくない。

2)借地借家法11条、32条に関する最高裁の考え方の根底には事情変更の原則(ないしはドイツの行為基礎論)が存在する。

3)結果的に棄却されたが、事情変更の原則の要件を明確化した平成9年最高裁判決は、その要件が充足されさえすれば適用されていた事案であった。

4)比較法的にみると、ドイツ民法313条、フランス債権法に関する司法省草案、イタリア民法1467条、オランダ民法258条、ロシア民法451条、アメリカUCC2章615条、ユニドロワUNIDROIT国際商事契約原則6.2.1条、共通ヨーロッパ売買法草案89条、中国の最高人民法院の立法作用による採用、台湾民法227条の2、などにおいて、事情変更の原則そのものまたは類似の制度が採用されており、決して例外的な制度とは言えないこと。

5)判例法として確立され、裁判でしばしば主張されるこの原則の明文化を見送ることは、現在諸外国からの「相変わらず日本民法はブラックボックスだ」という認識を一層強めることになってしまい、国際市場における日本法の地位をますます低下させてしまう。

確かに、内田先生のおっしゃることに一理あるでしょう。

ただ、事情変更の原則を明文化するとしても、その濫用を防止するために、その要件としてどこまで具体的に明確に記述できるか、という点が非常に難しいと思われます。

また、国連ウィーン売買条約では、事情変更の法理は採用されていないわけですから、ユニドロワ(UNIDROIT)で採用されていることをもって国際的な基準として採用されていると見ることはできないと思われます。

契約の使命たる「予見可能性」を損ない、しかも契約順守が本則であるところ、契約を破る自由を与えるような規定を明文化するのですから、相当のボリュームをもった明確かつ具体的な要件を練らない限り、弊害の方が大きくなるように思われてなりません。

改正の動向を見守りたいと思います。

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民法改正~個別論点1「事情変更の原則」

民法(債権関係)の改正の論点について、まず、「事情変更の原則」を取り上げます。

事情変更の原則採用(明文化)の是非は、法制審議会民法改正部会の「民法(債権関係)の改正に関する中間的な論点整理」第57番目に論点として掲げられています。

事情変更の原則とは、長期の契約関係において、経済/社会環境等の事情が当初考えられなかったような状態に変化し、その結果、当該契約をそのまま継続することが妥当でない(一方の義務を履行させることが公平ではない)と考えられるようになった場合、当該当事者からの契約条件の修正や解除を認めるべきではないか、という原則です。

消費者関連契約や労働契約など、もともと情報に格差のある当事者間の契約であれば、情報弱者である消費者や労働者側に事情変更の原則を適用することはそれなりに意味があると思われます。
しかしながら、情報格差のない(僅少な)企業間取引においては、予見不可能な事情の変更をベースに契約解除や条件の改訂を求める「権利」を与えることは、いたずらに取引の安全性、安定性を欠くことになるように思います。契約の最大の目的たる「予見可能性」が失われることは、「契約」の存在意義をも失わせる可能性があるようにさえ思われます。

一般的に企業間取引では契約締結の段階であらゆる可能性を考慮して契約条件を定める努力をするものです。したがって、予見できなかったことは「仕方のないこと」なのではなく、「検討がお粗末だった」ということでしかないと思われます。
(少し外れますが東京電力が津波を「予測できなかった」と言っているのは、同じように仕方ないことではなくまさに「検討がお粗末だった」と言えるように思われます。但し東電の問題は事情変更の原則ではなく不可抗力の問題ですが。)
事情変更の原則を明文化することは、契約交渉中に検討がお粗末だった当事者が保護され、検討を尽くした当事者が損をする、というような結果にすらなる恐れがあるように思われます。

第57の論点説明では、濫用の恐れが増加すること、信義則を用いれば済む、あるいは契約解釈の問題として考えればよい、との指摘がある一方、濫用防止のためには明文化して要件を明確にするべきだ、という考えも示されています。

確かに、「要件を明確化」するためには、条文化した方が良いかもしれません。
ただ、条文化するに当たっては、上記の趣旨から「予見可能ではなかった」ことの定義を明確にする必要があるでしょう。

なお、これまでの判例で定式化されている要件としては、次の4点が挙げられます。

1) 契約成立当時にその基礎とされていた事情が変更したこと,
2) 契約締結当時に当事者が事情の変更を予見できなかったこと,
3) 事情の変更が当事者の責めに帰することのできない事由により生じたこと,
4) 事情変更の結果,当初の契約内容に当事者を拘束することが信義則上著しく不当と認められること

ただ、最高裁で事情変更の原則の適用が認められたのは、戦時下において1件あるのみだといわれており(*「実務契約法講義」(佐藤孝幸著、民事法研究会P66)、そのような例外的な判決をベースに事情変更の原則を採用する必要があるのか、非常に疑問です。

なお、現在の法律では、例えば借地借家法において事情変更の原則の法理が明文化されているとみられるものがあります。
借地借家法11条及び32条の地代・借賃増減額請求権です。

要件としては、
1)租税その他の負担の増減、
2)土地(建物)の価格の増加または低下その他経済事情の変動、又は
3)近傍同種の土地(建物)の地代(借賃)と比べ不相当になった時
には、将来に向かって地代(借賃)の増額または減額請求ができる、というものです。

これは、借地借家関係という極めて特定された契約関係においてのみ適用されるものであり、増減額請求がなされる状況、範囲等についてある程度予測できる範囲にあります。

従って、濫用の危険性も少ないし、弊害も少ないように思います。
このような具体的法律関係を想定できるのであれば、事情変更の原則の明文化も可能ではないかと思います。

しかし、一般規定として明文化することは、一般規定であるがゆえにその要件が抽象的なものにならざるを得ず、従って濫用のおそれは極めて高くなると考えられます。

上記借地借家法のような個別法規において具体的な状況を念頭に置いた事情変更原則の明文化ではなく、一般規定として当該原則を明文化することは、どんなに意を用いたとしても抽象的な要件となることは免れないことから、あまり望ましいことではないのではないでしょうか。



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あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

紅白歌合戦は、久しぶりに紅組が勝ちました。
また、レコード大賞は、AKB48のフライング・ゲット。

  


年末年始を通し、AKB48が出演している番組をかなり見たおかげで、
息子のAKB48の話題についていくことができるようになりました。

ところで、レコ大をとった「フライング・ゲット」ですが、途中に何回か、

    「フライング・ゲットオ~....」

と、ゲットの後に強い調子の部分がきています。

英語としれみれば、「Get」のあとに母音がないので、強勢部分を持ってくるのは難しいと思うのですが、カタカナ英語だとそれが出来てしまうから不思議です。

寺村総合法務事務所は、本日1月4日から開店しております。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。




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