小学校での英語必修化について


小学生の英語必修化など、政府がまた英語教育について、あれこれ検討を始めたそうです。

小学校5年から、英語を通常の必修教科とし、中学以上では、英語による授業を義務付ける、ということが検討されているようですが、教育現場からは、教師の手があまりに足りないということで、多くのクレームが出ているそうです。

最近、先生に対して新たな課題や役割が押し付けられ、先生の御苦労は大変なものだと思いますが、それは人材と予算の問題としていったん脇へおくとしても、上の教育は、本当に効果的なのでしょうか?

最近、マーク・ピーターセン先生の最近の著書「実践 日本人の英語」を読み直しましたが、あとがきで、ピーターセン先生は、つぎのようにおっしゃられています。

「残念ながら、私が接する大学性の英語力が全体として...少しずつ向上してきているなあ、とはなかなか感じられない。  (中略)
 ひとつだけ最近の日本で、気になっていることに触れたい。
 英語か日本語かにかかわらず、文章の意味をしっかりとつかむ、よく考えて文章をつくる、といった基本的なことがちゃんとできているのかどうか、不安に感じることが増えてきたのである。
 それは学生に限らない。
 このことは単に英語で会話ができるかどうかといった、その場その場のコミュニケーション力の問題というよりもずっと真剣に考えるべき課題だと思う。」

授業を英語で行ったり、小学校5年生という日本語教育の大切な時期に英語教育を開始しようとする現在の議論は、果たして正しいといえるのでしょうか。

私は、英文契約を生業にしていますが、契約である以上、日本語でも英語でも、その内容が明確で自分の意図したことがきちんと反映されていることが契約には大切です。

さらに言えば、契約で実現しようとしているビジネスや業務のやり方が本当に理に適っているのかを判断する目がないと、リスクだらけの契約になってしまいます。

英文契約の交渉業務で重要なのは、華麗な会話力ではなく、地道な論理的作業です。
英語のコミュニケーション力の問題ではありません。
(安易に即決してしまう恐れがあるので、コミュニケーションが中途半端にある方が、契約交渉においては、逆に危険ですらあります)

必要なのは、自国の言葉で、自らのビジネスの内容を具体的に描き、問題点を論理的に追及する力なのだと思います。
そのうえで、その内容を、正しく文章に表現していくことが必要です。

昔から「交渉べた」と日本人は言われてきました。

島国で、生死をかけた他国との折衝を行う必要の少なかったその歴史に原因があるのでしょう。

自分の主張を、感情ではなく、論理的に正しく言うこと。

この訓練が日本人に必要だと叫ばれて、長い時間が経過していますが、それは、決して英会話で達成されるような「コミュニケーション」力ではないと、私は思います。

自国の言葉で論理的に考えられない者が、他国の言語で正しく思考できるとは、誰も思わないでしょう。

ピーターセン先生のおっしゃりたいことと同じかどうかはわかりませんが、先生の最初の言葉は、日本人として胸に刻むべきものだと、私は思います。

コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する